日記1558

この間の朝日新聞の朝刊に書き留めるべき記事が載ってたんで、今朝文字起こしした 植松事件に関する記事なんだけど、植松の言い分に対する論駁としては一番納得がいくものだった と言うことでここにもメモメモ

 

【2020年3月23日朝日新聞朝刊 やまゆり園事件裁判 ともに考える(立命館大学立岩真也教授)より引用】
45人もの人を殺傷した事件はほとんどない。また、「いない方が良いから殺す」という被告の考え方には飛躍がある。だが、「生産できない人間を生かしておくと社会がもたない」という考え方は、社会に広く深く根付いていて、その意味で被告と社会は連続していると捉えられる。
確かに、食べ物や日用品など、生きていくためには誰かが生産をしないといけないし、できることはいいことだ。だが、それはできない人が生きてはいけないことの根拠にはならず、そのような根拠もない。
事件の根底にあるこの間違った考え方は、生きるに際して役立つものを提供できるという「価値」と、そうして生きる本人にとっての良さという「価値」とを、混同することから生まれている。
例えば、勉強や体操、芸術ができることは、気持ちがいい、美しいといったプラスの価値に繋がる。だが、それはそもそも人間が生きていることを前提とした、良く生きるための手段としての価値といえる。
一方、「生きることの価値」というのは、ご飯を食べておいしい、あたたかくて気持ちがいいといった、「一人一人が世界で生きていくことの中から受け取っている良さ」を指す。それは生産ができるかどうかに関係なく、ほとんどの人にあるものだ。
人に世話されて生きる人は、他の人より良い部分や好かれる部分がないと生きてはいけないのか。生きることの価値を勝手に減らしたり、奪ったりしてはいけない。その人にしかないその人の良さが無くなってしまう。だから、殺してはいけない。
だが「生きることの価値」はしばしば見過ごされる。今後いいことなんかない、大変な時代になっていくんだと言う社会に漂う暗い見立てが目をくらませる。その見立てがそもそも間違っている。
例えば人手不足が言われる。親一人子一人で子育てをする家庭、子が一人で親の介護をしている家庭は、多くが追い詰められている。ケアを手伝う人がいればいいのだが、担う人手が足りない。
少子高齢化のため」と説明されるが、それはまったく間違っている。そこは、被告も多くの人も全く間違っている。働ける人や働きたい人はたくさんいて、給与といった労働条件や労働環境が良くなれば、人手が足りないと言われる部分も十分に賄える。
そうした社会の設計がうまくいっていない部分を直す前に、誰もが暗い見立ての下で我慢比べを続けている。被告はまさにこの社会の見立てを真に受け、事件を起こした。他にも信じている連中はたくさんいるだろう。そこから直さないと本当はダメなんです。

 

この記事読んで思い出したのは、StarTRainの七美の次のセリフかな

「でもね、もし、私がいなくても幸せになれるように、お兄ちゃんにはなって欲しいの。私がいなくても、よく周囲を見渡してみて、そこから幸せを探せるような、そんな人になって欲しい。」
「幸せを見つける力。幸せなんてね、多分、なんてことはない、そこらへんの日常に転がってると……多分、私はそう思うんだ。日常はくだらなくなんてないよ。それに、もし本当にくだらないんだったら、旅でもしてみればいい。無理して物語に憧れなくても、面白いことって、そこら中に沢山転がってるからさ。……あ、物語に憧れるのだっていいと思うよ。ただ、今の毎日に価値観を見出だせなくって、それで幸せになれてないのなら、ってことね。」

 

まあ俺もエロゲがそんな高尚なもんだと主張することはしないけどさ、時にエロゲのセリフも胸にぐっとくるよね

 

さて!コロナがやばいぞ どうなっちゃうんだろう

 

2020/03/25(水)の日記